リョーリフ博物館:ペテルブルクホール

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世界になくてはならない博物館:モスクワにあるニコライ•リョーリフ博物館に関する記事のシリーズ。初め。

 

サンクトペテルブルクは、東西の様々な時代とスタイルが混合している為、街全体が博物館のようである。ニコライ•リョーリフ(1874-1947)が生まれたのはこの街だった。ニコライ・リョーリフは彼の73年間の人生のうち、彼はサンクトペテルブルクに42年間住み、この素晴らしい街との精神的なつながりを永遠に重んじた。

 

ホールに展示されている写真や文書は、ニコライの人生の様々な時期を映し出している。

幼少期、有名なカロル•マイ学校での学生時代、サンクトペテルブルクでの大学時代、芸術アカデミーでの長年に渡る研究期間等である。

 

このホールでは、ニコライ・リョーリフが学生時代に描いた絵も、その他の時期に手がけた作品も見ることができる。彼は長年に渡りサンクトペテルブルクで過ごした為、そこで有名な芸術家となった。また、科学者、作家、考古学者にもなり、公人となった。

 

そして彼はそこでエレーナ・シャポシニコワ(1879-1955)と出会う。彼女は、並み外れた才色兼備な女性であり、様々な貴族の中でも特に高級貴族であるゴレニシェフ・クツゾフ家の娘であった。

ホールの展示品には、ゴレニシェフ・クトゥゾフの紋章や、エレーナ・イワノフナの幼少期の写真や、彼女の両親の写真などが含まれている。

 

手を合わせ、精神的に一つになれていたエレーナとニコライはまさに一心同体の夫婦であった。彼らの長男ユーリ(1902-1960)は、後に世界的な東洋学者として知られるようになり、末息子のスヴャトスラフ(1904-1995)は父と同じ道を選び、画家になった。リョーリフ一族のそれぞれが、世界中の文化的空間に貢献し、唯一無二の証を残した。


 

エレーナ•シャポシニコワ 1900年
 
ニコライ•リョーリフ 1900年
 
 
「秋 ヴィボルグ」
1919年
23,5 х 63,5 cm
ボール紙、ミクストメディアに接着された着色紙。
 
 

 

1918年の初秋にニコライ•リョーリフの家族は、トロランサアリからフィンランドの湾岸にあるヴィボルグに居住を移した。そして絵のように美しい岩礁を、画家が見過ごすわけはなかった。

 

「秋 ヴィボルグ」の絵画の中では、 この遠景の丘は紺色の色調で彩られ、中景には湾に浸る

岩が描かれた。湾の緑がかった灰色の海には、紫と青で彩られた曇り空が反射しており、細いピンクの線は、遠くの海岸の崖のシルエットを際立たせている。前景では、まばらな植生が生い茂っている。

 

 

 

ロシア語からの翻訳者:

オレクサンドル・チスチャコフ

翻訳補助:

加藤 はる花

2021-22
 
 
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ホールの展覧品の描きの纏め:

 

 
 
 
 

ロシア語からの翻訳者:

オレクサンドル・チスチャコフ

翻訳補助:

加藤 はる花

2021-22
 
 
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