リョーリフ博物館:ユリー•リョーリフのホール

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ユリー・リョーリフのホールは、西洋と東洋の最も偉大な百科事典ほどの知識を持ち合わせる一人であった、ニコライとエレーナの長男のために存在する。彼は東洋学者兼言語学者であり、同時に歴史家や考古学者でもあった。
 このホールでは、ユリーの趣味の幅広さや、若い頃からの彼の才能の多様性について語られている。ユリーの幼い頃からの写真やイラストが紹介されている。
 幼い頃からユリー少年は、歴史、東洋、外国語、軍事に興味を示していた。彼はヨーロッパとアメリカの東洋研究の最高峰、ロンドン、ハーバード、パリの三つの教育機関で教育を受けた。
 パリでは、経済や法学を同時に学び、特別な軍事教育も受けていた。
 ユリーが21歳になったとき、ニコライ•リョーリフの中央アジア遠征が始まった。東洋言語の知識を備えていた為、彼は地元の人々と容易にコミュニケーションを取ることが出来た。彼はその地の古代の伝説を書き留め、古い写本を研究し、既存の遠征地図を改良した。そして発掘調査を実施し、現地の案内人との交渉や、遠征の安全を守るための役目を務めた。遠征中の、ユリーを映した写真はホールのフリーズで見ることができる。ショーケースには、キャンプ用品、武器、その他の軍事機器が展示されている。ユリーの戦術的技術と、生まれ持った勇敢さで遠征隊が何度も救われた。
 ホールには、弥勒菩薩のユニークなタンカ(仏画)が展示されている。遠征隊は、そのタンカ柄の旗と共に全ルートを通過した。人生最後の日までユリーはその旗を大切に保管した。
 遠征を終えてユリーはその記録を、「チベット人ペインティング」、「中央アジアの小道に沿って」、「北チベット遊牧民のアニマルスタイル」という複数の著書に収めた。それらの科学的著作物はこのホールの中央ショーケースにて展示されている。
 ウルスヴァティ研究所は、研究所オリジナルの雑誌を発行しており、多くのユリーの科学的作品がそこで紹介された。このホールでは「サンスクリット語の類似語を含むチベット語・ロシア語・英語辞書」の原物も見ることができる。ユリー•リョーリフは1957年にモスクワへと拠点を移した後にこの辞書を完成した。
 彼はたった2年半という短い故郷での生活の間に、信じられないほど多くのことを成し遂げた。彼は東洋学研究所で、インドの哲学や宗教の歴史分野を率いた。彼は、当時ロシアで消滅の危機にあった東洋の文学的な伝統を復活させ、チベット学の流派を創設し、ソ連でサンスクリット語を教え始めた。また彼は、東洋における古代の哲学的な書物や文化的書物の翻訳作業において主要な役割を果たし、「仏教図書館」シリーズを復活させた。
 ユリー•リョーリフは、1960年にこの世を去った。このホールには、彼の弟が描いたユリーの肖像画がある。
 「ユリーは、真に達観した科学者兼思想家であり、精神的に最も調和のとれた理想的な人物たっだ。」 と、スヴャトスラフ・リョーリフが兄について記している。
 「彼は、溢れんばかりの創造力と実行されずに終わった計画をこの世に残して亡くなった。昔、我らの父の死も、同じように予期せぬ間に訪れた。しかしその父の死を受けて、恐らくこれがこの世を離れるのに最も相応しい方法である、と我々は考えるようになった。自分の能力の上昇に身を任せ、波に乗るように人生を去ってゆく。想いは他者に引き継がれ、彼の計画は継続されることとなった。」
スヴャトスラフ•リョーリフ ユリー•リョーリフの肖像画1930年 (未完成)
 

ロシア語からの翻訳者:

オレクサンドル・チスチャコフ

翻訳補助:

加藤 はる花

2021-22
 
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