スヴャトスラフ・リョーリフ 『キャサリン・キャンベル氏の肖像画』
『キャサリン・キャンベル氏の肖像画』
1929(?)年
33,5 х 40,5 cm
キャンバス上のテンペラ画
スヴャトスラフ・リョーリフは、同時代に肖像画の展示会を催した肖像画家の巨匠のうちの一人である。
彼の画家としての才能は青年期にすでに現れており、数々の展示会で最高位の賞を受賞することで繰り返し注目されていた。
彼は無尽蔵のエネルギーを持っており、儀式用などの公的な作品と室内用の作品(チャンバー肖像画)の両方の肖像画を驚くほど容易に制作し、キャンバスやその他の素材を通して人間の無数の感情を伝えた。
スヴャトスラフ・リョーリフは、1920年代半ばにニューヨークでキャサリン・キャンベル(再婚後はスチべ(Stibbe)(1898-1996)と出会った。その時に彼女の外見の美しさに魅了された彼は、キャサリンにモデルになってくれるよう頼んだ。しかし彼女の魅力は外見だけではなかった。彼女の明確な心や精神的な寛大さ、品位の高さ、そして並外れた誠実さにより、スヴャトスラフと彼女は徐々に親交を深めていった。ニコライとエレーナ・リョーリフも、一人の人間のそのような稀な魂の資質を見過ごさなかった。そしてやがてキャサリン・キャンベルはリョーリフ一族の一員となり、後にニューヨークのニコライ・リョーリフ博物館の館長、またアグニヨガ協会の副会長となった。
1930年代後半まで時を遡ると、当時の館長であるルイ・ホルヒはその殆ど全ての展示物を横領し、それらをオークションにかけた。その際キャサリンはニコライ・リョーリフの絵画を100点以上購入し、ニューヨークのニコライ・リョーリフ博物館をなんとか救うことに成功した。
戦争に志願した一人息子を1944年に亡くしたキャンベルは、その後も禁欲的に公益のために働き続けた。
「キャサリンについて想いを馳せると嬉しい気持ちになります。彼女が今でも私の心の中に生きていること、そして彼女の我々の活動に対する全ての協力に私がどれほど感謝しているかが彼女にも伝わっているかもしれません。本当に私の心は感謝の気持ちでいっぱいです...」
とエレーナ・リョーリフは書き残した。
エレーナ・リョーリフの生前、キャサリン・キャンベルはエレーナのために何度もインドを訪れていた。エレーナの没後にインドを訪れた際は、スヴャトスラフ・リョーリフと彼の妻のデヴィカ・ラーニの住居に滞在した。
スヴャトスラフの地上の旅が終わるまで、キャサリンとスヴャトスラフは文通を続けた。
1970年代後半、キャサリンはスヴャトスラフ・リョーリフの希望通りニコライ・リョーリフの40点以上にもなる絵画をソ連国民に贈った。 キャサリンは長い人生を通して、彼女の師匠であるスヴャトスラフ・リョーリフのために最も明るい感情と献身さを抱いていた。
『キャサリン・キャンベル氏の肖像画』では、スヴャトスラフ・リョーリフが彼女の自然な美しさと誠実さを繊細かつ絶妙に伝えている。
薄い麦わら帽子をかぶったお嬢様の顔にはやわらかな影が落ち、帽子の広いつばの間から明るく軽やかな日光が差し込んでいる。
オレンジと水色という夏を代表する色彩に溢れ、乱れた巻き髪と美しい瞳が見える。そこには探究心に満ちた魂の複雑な動きが反映されており、その表情には精神性が溢れている。
全体が穏やかさと誠実さ、そして特別な温もりを持って呼吸しており、見る者に美しさとの触れ合いを忘れがたい印象として残す。
エレーナ・リョーリフはこの「スイスで描かれた麦わら帽子の肖像画」をこよなく愛していた。
スヴャトスラフ・リョーリフはあらゆる美を賞賛したが、醜さの美学については彼にとって絶対的に異質なものであった。:
「なぜ人生のネガティブな側面を表現しないのかとよく聞かれました。私の考えは、”それらが存在する以上、すべてを知るべきである。”というものですが、芸術の世界ではその答えはすでに固定されているのです!”芸術を使えば人生においてのネガティブな側面から離れることができるが、絵画で伝えられたネガティブな側面はそれ自体が生命を持ち、もはや離れることのできない始まりとなってしまう。。。” すべての生命は美しさを求めるけれど... 」。
ロシア語からの翻訳者:
オレクサンドル・チスチャコフ
翻訳補助:
加藤 はる花