カテリナ・ビロクルの人生の物語。素敵な美術はウクライナから。

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この不思議な絵はウクライナの画家カテリナ・ビロクルの絵です。今日この画家について少し話します。実は、カテリナの人生は最初からとても辛く酷いものでした。それにしてもこんなに不思議な、魅力ある絵を描いた、素晴らし世界を自分の心の中に広がりましたね。カテリナは、農家の家族出身で1900にボグダノフカという村で今のウクライナの小さい町近くに、ヤゴチン名前で生まれました。6歳で読むことを習ったですが、家族は学校に行くことを許しませんでした。学校が無理だったので、ただ家畜を見守りと畑で働きながら生活しなければなりませんでした。カテリナは個人的に、幼いころから画くことが好きだったのですが、そんなことを家族は絶対に理解しませんでした。初めての絵は、お母さんから盗んだ白い布に炭で書きました。何回もその布を使い、描いたあとで洗濯しました。何回も何回も同じ布を使いました。画家の言葉通りにそんなことまでばらされたとき、お父さんとお母さんはとても怒りました。燃えるように暖炉にその絵を捨て、暴言だらけでいきなり叫んだ。「貴様は馬鹿、それを誰かが見たら結婚は絶対にできません。」と言いました。不思議な鳥も、花も、いずれにしても構わない、妄言しかありませんでしたよ。なぜそんな残酷ことが起きたのか分かりません。カテリナは分かることができませんでした。どうしても画く以外何もかも必要ないと生まれたけど、そんなに敵らし家族に繋がっていた?それをカテリナは理解できません。でも描き続け、全然止まらなかった画家の言葉通りに、花はカテリナといつも話し合ってるみたいでした。

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ロシアの革命後で、1922年にカテリナは美術の実業学校に入りたいですが小学校を通いませんせいでお断りだった。それはカテリナにとってすごく酷い攻撃だったよ。それにしても一所懸命カテリナは描き続けた、同時に村の演劇のクラブの芝居で参加しました。1928年に演劇学院に入るやってみたですけど小学校に勉強しませんでしたからも一度お断りしました。1934年にカテリナは自殺をやってみた、村の川に溺れるつもりだったよ。失敗にしてもその後で足は病気になった。その後だけカテリナのお父さんは、呪いしながら、カテリナの画くにハマるのことを許したきた。 1940年にラジオで莢蒾に付いて有名なウクライナの歌手オクサナ・ペツルセンコから歌を聞きました。莢蒾のベリーはウクライナの文化のなかで何か桜の花は日本の文化でみたいですよ。その歌に感動しましたからカテリナは歌手へ自分の描いた莢蒾の絵を送りました。   

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住所を知りませんでしたので、ただ「キエフ、学術劇場、オクサナ・ペツルセンコへ」と封筒で書き送りました。その後カテリナの人生は変わりました。オクサナさんはその絵をみたときにとても感動し、カテリナに他の世界へ開けるのを手伝いました。二人友達ともに、ウクライナの詩人パブロ・ツチナと画家ワシル・カシアンは、あの時のカテリナの生活を変わらせました。ついにウクライナの画家はカテリナの絵を見て認めました。あの時までに描いた11枚の絵の個展を開催し、多きな成功を収めました。その後でモスクワの美術館を見るために報奨の意味で モスクワへ行かれました。戦争後でウクライナの画家連合のメンバになりました。ウクライナの民族装飾美術館はカテリナの絵をたくさん買い、海外にその絵は旅しましたし。1954年にその絵をパブロ・ピカソご覧しました。「その画家はフランスに住めれば世界中の人がその絵に付いて話させよはずだ」とあの絵を見た後でパブロ・ピカソと言いました。
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それからもカテリナは村で病気のお母さんと住み続けました。1961年に、お腹の病気になった後で、外科手術後でおなくなりました。どんなに辛くても素晴らしい人生だった。家族の辛い状況にしても決して諦めなることなく過ごしてきました。最初の筆を猫の毛から作られたにしても、最初の絵具は玉葱のかわからとったにしても、どうであろうと描くのことが大好きだった。それから日本についても知りたいよ。その絵は人生の物語。楽しんでくださいませ。
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