キエフとウクライナの観光地は、パート3。聖ソフィア大聖堂や聖ミハイルの黄金ドーム修道院について。


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今もウクライナのとキエフの観光地について少し語って行きたいと思う☺。その情報はキエフの日本語のクラブ話会と言うおかげでまとめました。 

パート1こっちだよ

パート2ここにある。
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 聖ソ
ィア大聖堂

キエフの歴史や伝統文化はキリスト正教会の歴史と強くつながっていて、「黄金ドームのキエフ」と言われるくらい、キエフはいつも教会や修道院がたくさんありました。今から、時代を越えて11世紀から残った教会をご紹介します。世界遺産の聖ソフィア大聖堂です。

聖ソフィア大聖堂はキエフの中心にあるキリスト教の大聖堂です。ウクライナ最初の中央政権国家のキエフ・ルーシ最大の聖堂として1037年にヤロスラフ賢公によって建てられたとされていました。しかし、最近の研究によって、聖堂の建設を始めたのはヤロスラフの父親ウラジーミル1世で、ヤロスラフは飾りをつけたりして大聖堂を完成したと証明されました。ウラジーミル1世はキエフ・ルーシでキリスト教を広めた人として有名です。建設は1011年から1018年まで続いていました。聖ソフィア大聖堂が建てられた頃の日本と言えば、平安時代でした。ちょうど同じ時代に、清少納言の枕草子や紫式部の源氏物語が書かれたそうです。

聖ソフィア大聖堂は、キリスト教と国家の権威を主張するために作られました。その大聖堂は11世紀から13世紀半ばまで、色々な目的に使われてきたのです。キエフ・ルーシの大司教の座、大公たちの即位儀式・結婚式・葬式の場所や異国使節団の接待の場所として使われてきました。大聖堂にはキエフ・ルーシ初の図書館と大学もあり、国家の歴史編纂作業も行われていました。

「ソフィア」という名前は、ビザンツ帝国のコンスタンティノポリスにあった当時のギリシャ正教の最高府の、ビザンチンのハギア・ソフィア大聖堂にちなんで名づけられたと言われています。「ソフィア」という名前はギリシャ語で「賢明」という意味です。

キエフの聖ソフィア大聖堂は中世のヨーロッパの建築の中で最も大きい建物の一つでした。その時代の聖ソフィア大聖堂は、ビザンツ様式で建てられていました。大聖堂の中にはカラフルなモザイクや、フレスコ画、イコンがありまた。また、教会の中では聖歌隊が歌っていたので、音がよく響くように、上の壁には粘土の水差しがたくさん埋められました。

1169年に他の大公国の軍勢によって大聖堂は初めて大きな被害を受け、2040年にモンゴル帝国はキエフ・ルーシを占領するとともにソフィアは部分的に荒れ果てました。

大聖堂の今の建物は17世紀後半にウクライナ・バロックというスタイルで再建されたものですが、内装は11世紀のものが残されています。聖堂の中に入ると、まず一面のフレスコ画とモザイクを見ることができます。壁はフレスコ画で埋め尽くされ、真ん中のドームからは、とても大きなモザイクのキリストと、「オラント」という両手を広げた聖母マリアが人々を見下ろしています。昔の伝説によれば、マリア 「オラント」はキエフの主民を守っていて、「オラント」の壁がある限り、キエフは大丈夫です。 この聖母マリアのモザイク画はスマルタという小さなガラスの破片でできていますが、いったいどのぐらいの石の破片が使われていると思いますか? ・・・ 実は300万個以上のガラスの破片が使われているのです。スマルタはコバルトガラスの一種です。金属などが入っていて不透明なガラスで、きれいに輝いています。

フレスコ画の一部とほとんどのモザイクは、11世紀からのオリジナルです。他のフレスコ画に比べたら色褪せているので、見てすぐにわかります。

また、大聖堂はキエフ大公の墓としても使われてきました。北側にある部屋には、ヤロスラフ賢公とヤロスラフの妻であるイリナ妃の石の棺があります。1930年代にこの墓は開けられ、中にあった骨が調べられました。その結果、ヤロスラフ賢公は足が悪かったという伝説が本当だったということがわかりました。調査後骨がもとに戻されたと思われてきましたが、2009年に棺が再び開かれ、骨が消えたと分かりました。骨の行方は今でも秘密のままです。

聖ソフィア大聖堂は中のモザイク画やフレスコ画が大変美しいだけではなく、宗教的にも歴史的にもとても大切な場所です。

大聖堂の前にあるソフィア広場には馬に乗っている男の人の像があります。それはウクライナ・コサックのヘーチマン(指導者)ボフダン・フメリニツキーの像です。この人はヘーチマンとして、ポーランド・リトアニア共和国に対して1648年から1657年にかけて反乱を起こしてヘーチマン国家を建設した(フメリニツキーの乱)。キエフ・ルーシ崩壊後のウクライナ史上最大の英雄とされています。

聖ソフィア大聖堂の向かいに聖ミハイルの黄金ドーム修道院があります。聖ミハイルは昔からキエフを守っている天使です。聖ミハイルの黄金ドーム修道院はキエフの歴史的なミハイル広場と言う所にあります。聖ミハイルの黄金ドーム修道院は「黄金ドームの都」と呼ばれるキエフのシンボルの一つです。修道院は1108年から1113年までの間キエフ大公ヤロスラフ1世の孫、スヴァトポルク2世大公によって建立されました。1934年から1936年にかけて大聖堂や鐘楼などの建物は共産党政府機関を建設するために破壊されました。1995~1998年の間、修道院の復元作業が行われ、現在は教会と博物館として機能。

修道院前の広場には、聖人になったキエフ公妃像が再建されています。オリガ公妃はキエフ・ルーシに洗礼を施したウラジーミル1世のおばあさんです。オリガ自身もキリスト教の信仰者になりましたが、その時はまだキリスト教は国で広く伝われていなかったのです。

オリガ公妃はイーゴリ1世の妻でしたが、イーゴリ1世が亡くなった後で945年から960年までキエフを統治していて、キエフ・ルーシをとても強い国にしました。オリガ公妃の像の左と右に三人の像があり、右にすわっているのはウクライナへキリスト教を伝えたといわれるアンドレ使徒です。左に座っている二人はキリルとメフォディという最古のスラブ文字(キリル字)を発明した人たちです。

お金の札に描かれた聖人大公たち

オリガ公妃、ウラジーミル大公とヤロスラブ賢明は亜使徒聖人になりました。亜使徒というのは「使徒に等しい働きをした者」という意味です。ウラジーミル大公とヤロスラブ賢明の絵は1フリヴニャ(ウラジーミル)と2フリヴニャ(ヤロスラブ)にあります。

三人のイコンはこちら。

キエフ・ルーシの大公の中で初めて洗礼を受けて教会を建てた聖妃オリガ。その記念にイコンで十字架と教会を持っている姿が描かれています。

キエフ・ルーシに洗礼を施したウラジーミル大公は悔悟して自分の人生を直して聖人になった罪人の一例です。若いときに残酷なことや道楽なことをたくさんしたのですが、キリスト教の信仰者になった後で自分の人生を変えて、敬虔な人になりました。教会を建てたり、貧乏な人や未亡人や孤児の世話をしたりしたので、民族に「私たちの太陽」と呼ばれるぐらい好かれました。

教会や図書館を作ったりしたヤロスラブ賢明。本が大好きで、巻紙を持ってイコンで描かれた。

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