ウクライナやキエフの観光地は、パート2.古いキエフと黄金の門。

今もウクライナのとキエフの観光地についてすくし話したいです。その情報はキエフの日本語のクラブ話会と言うおかげでまとめました。 

パート1こっちだよ
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キエフは、黄金の門とヤロスラフ明君の時代。ヤロスラフ1世の、

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ヤロスラフ賢公の時代はキエフ・ルーシ(キエフ大公国)の黄金の時代だったね。この国にいろんな大公がいたけど、その中で国や民族のことを考えていた大公は少なかった。だからこそルーシの歴史は終わらない大公の戦いだったよ。日本の戦国時代みたいに。ヤロスラフの時代にそれは終わったが、残念ながら、ヤロスラフの死後はまた始まった。。。。それはルーシのモンゴルの手で滅したことの主な理由だったね。だけどヤロスラフの時代にたくさん重要な教会や建物が築かれた。それから最初の法律のまとめ、ルースカヤ・プラウダ (キエフ大公国)(

ルースカヤ・プラウダ (キエフ大公国) - Wikipedia
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)が書かれて、文作が始まった。ヤロスラフの娘達はいろんなヨーロッパの国の王女様になりました(フランスとか、ノルウェーとか、ハンガリーなど)。今のウクライナは、古代の国の世継になったように、ヤロスラフの国から国の章も、旗も、お金の名前も受け取った。

黄金の門はその時代の文化財だ。終わらない戦争のせいでキエフは沢山の敵に襲われたけどその門を敵が誰も超えることができなかった。その時代の無敵な門だったね。その門の上には小さい教会があったが、それは宗教と戦力を繋がるためだった。


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あそこにもっと黄金の門の写真があります。
精神を強くさせるために。モンゴルはもその門をこえることができなかったが、他の門からキエフに入り込んだ。その門はなぜ「黄金の門」と呼ばれたか今誰も知らないが、もしかしてコンスタンティノープルのゴールデン・ゲートにちなんで名付けられたかもしれない。


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それとももしかしてそのキエフの主なる門を通るために旅行者は金のコインで払わなければならないことからその名前ができたのかもしれない。今それは謎のまま。いずれにしても黄金の門は各時代にキエフの印だったね。ボフダン・フメリニツキー(

ボフダン・フメリニツキー - Wikipedia
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の解放戦争のとき国民はコッサクスの軍をその門で迎えた。今その門を守るために門の横に外の壁は建たれてある。


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